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Creativity Enhancement Ltd.
                          VOL.3 2007.9.5


           『北岡泰典メ−ルマガジン』


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精神世界の求道者・変性意識の学際的研究家・国内NLP第一人者である著者が、
スピリチュアルな世界・カウンターカルチャー等について縦横無尽に語ります。
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『私の人生について、その二』


皆さん、こんにちは。変性意識の学際的研究家・NLP ファシリテータの北岡泰典です。

本メルマガの先号では、私は、『私の人生について、その一』と題して、私の高校卒業までの人生について語らせていただきました。

本号では、私の浪人生活から大学卒業までの人生について語ってみたいと思います。(本号は、極めて (コンテンツ志向の) 「私小説」風の内容になっています。)

18 歳で田辺の高校を卒業しましたが、高校時代、私は「不良少年」で、「学生運動」にも関わっていたので、勉学はそれほどうまくいったわけはありませんでした。

それでも、中学時代から得意だった英語と国語の成績はトップ クラスだったので (実は、小学校 4 年生から 6 年生まで施設にいてまともな授業は受けていなかったので、漢字力を含め国語の能力は低かったのですが、高校に入学して文芸部に入部した後は、大江健三郎を含めて小説を読みまくる日々を送り、国語の試験成績が突如飛躍的に伸び出した記憶があります) 、入試科目数の少ない私立大学を目指したいと思いました。(数学の成績も、中学時代は常にトップ クラスだったのですが、高校に入学して最初の半年間、単純作業の「因数分解」の授業が延々と続いたことにはとことん辟易し、「Σ (シグマ)」の記号や「微分」、「積分」が出てきた頃には、数学を完全に諦めることを決断しました。)

志望の学部としては、大江健三郎が東大の仏文出身だったので、(国立は無理だと思ったので) 私立の文学部仏文科と決めました。現役のときは、早稲田大学の文学部 (一括募集で、専攻の学科には 3 年次から分かれるようになっていました) ただ一つだけの入試を受けました。入試科目は、英語、国語、社会の三科目でしたが、国語の入試問題に何と大江の小説 (『洪水はわが魂に及び』だったと思います) が引用されていましたが、(たぶん偶然に大江の小説が問題として出たことにあまりのショックを受けて?) たとえば、「募る」といった漢字問題も正答できませんでした。社会は「倫理社会」を選択しましたが、この科目は「お宅」的で、この科目を選択した受験生の数は、全体でもおそらく数人、数十人だったのではないでしょうか? (高校の倫理社会の授業では、「真我のアートマンと絶対神のブラフマンの同一性を説いた印度哲学者がいた」ということを学んだことだけが印象として残っていますが、後年、この哲学者のシャンカラチャリヤを本格的に研究することになったのは、偶然には思えません。)

「もちろん」、現役の入試には失敗して、私は上京して浪人生活を送りました。高田馬場にあった予備校から西武新宿線の花小金井駅の下宿を紹介され、そこに住みましたが、駅からかなり離れていました。賄いつきの浪人生専用の下宿屋でした。

私は、一浪のとき、夏の終わりまでほとんど勉強しなかった記憶があります。毎日「ぶらぶら」していました。場所がら、太宰治が愛人と入水自殺した玉川上水のエリアまで歩いてみたり、中央線沿線のジャズ喫茶、ロック喫茶等に通ったりしていました。

9 月に入って、さすがにこれではまずいと思い、それ以来、毎日 12 時間以上勉強することにしました。他の住人の予備校生は数人いましたが、4 月からずっと毎日夕食後に食堂の前の廊下で世間話 (哲学の話はなかったと思います) をし続けていて、彼らのこの日課は翌年の入試の時期まで続きました。

案の定、翌年の入試時には、私は、早慶明等の文学部の入試を受けましたが、勉強を始めるのが半年間遅れたのが致命的な原因となり、全滅でした。下宿屋の予備校生も、一人を除いて、全滅だったようです。

というわけで、私は、住まいを高田馬場の松竹映画館の裏のアパートに移し、二浪目の生活を始めました。二浪目は、当初から、一浪の後半同様、毎日 12 時間以上の勉強を続けました。同時に、私と同じ高校出身の同学年生で、現役で都市圏の私大に入学していた女性と恋愛関係となり、板橋の彼女のマンションに通う生活を始めました。

普通は、勉学 (それも浪人生活) と女性関係と両立することありえないのでしょうが、この女性は、「私の夢」を達成するための「精神的な支え」になってくれました。

夏には、三田の慶応大学で半月間ほど開講された受験生用英語模擬試験会に参加しました。毎日のように模試がありましたが、数回以上、参加 200 人中、1、2 番の成績を取りました。

秋になって、予備校の面接を受けましたが、面接官に「昨年と比べると、あなたの成績はおどろくべきほど飛躍的に伸びている。昨年の成績では、三、四流校しか薦められなかったですよ」と言われました。

予備校の授業は、秋以降は、ほとんど生徒が出席しない状況になりましたが、英語の授業だけは、翌年の最後の授業まで皆勤しました。もう一人だけ皆勤した生徒もいましたが、この人の英語力はひどいものでした。最終日に、この予備校の英語の先生は、私 (ともう一人の生徒) の名前を聞いて手帳に控えていました。

というわけで、二浪の終わりには、毎日 12 時間以上の勉強を 1 年半続けた後 (そのうちの 10 ヶ月間は彼女と「半同棲生活」を続けた後)、早慶明の文学部と早稲田の第二文学部の入試を受けました。第一志望の早稲田大学文学部の入試日には付きあっていた女性のマンションから受験会場に行きましたが、昼休みに彼女の作ってくれていた弁当を開けると「今日はがんばってね」というメッセージが入っていました。

受験結果としては、前年の慶応大学での受験生用英語模擬試験会でいい成績を取れば、翌年の入試にもその点が考慮されると言われていたのですが、慶応の受験合格者番号には私の番号がありませんでした。

早稲田大学文学部の受験当日、帰り際の大学の校門で予備校関係者が模範解答を配っていたので、それをもらって、下宿に戻って自己採点しましたが、英語の得点は五十点満点中五十点だったことがわかりました。ただ、他の科目の国語と社会 (一浪目からは社会の科目を倫理社会から世界史に切り替えていました) の成績はよくなかったので、今回もだめだった、と思いました。

予備校の先生に相談して、早稲田の第二文学部よりは明治の文学部に行くべきだという助言を受けて、明大に入学手続きはしたのですが、その後、早稲田の受験合格者番号掲示板に私の番号を見つけて、驚愕に近い大きな喜びを覚えました。(他の科目の成績が悪すぎたのに、おそらく、英語の入試の得点が満点だったことが考慮されたか、あるいは、最後まで皆勤して、私の名前を控えた予備校の英語の先生が学部に「一言」声をかけてくれたのではないか、とさえ思ったくらいでした。)

大学生活は、私の高校時代の「アナーキー」性に比べると、極めて「地味」なものでした。私は、本メルマガの第 2 号で「文学的にも、音楽的にも、文化的にも、政治的にも、私の方向性は、高校 2 年くらいまでにすべて決定づけられました。この時期までに影響された文化的要因を、その後のサハラ砂漠と欧米での『放浪』の中で、ほぼすべて完全実現していくことになります」と書きましたが、確かに、私の予備校生/大学生生活において私が新たな発見や学習をしたという経験はほとんど皆無で、おそらく私の人生で最も「不毛」な時期だったと形容できるかもしれません。私が、高校 2 年までに決定的に感化された「ヒッピー性」を真の意味で自己実現し始めるには、大学卒業後のサハラ生活を送るときまで待つ必要がありました。

(おそらく、ある人が中学校、高校で、かなり「ラディカル」な人生を送ることはあっても、普通であれば、大学時代に「世の中への適応のし方」を身につける (つまり、「神童」が「凡人」になる) ことを余儀なくされ、その後の社会生活への下地を作ることになるのでしょうし、私の場合も、大学を卒業した後、仮に国内に残っていれば、そのような「平凡化」の道を歩んだであろうことはまず間違いないですが、非常に幸いなことに、卒業後、サハラ砂漠、西海岸、欧州等に行き、住むことができたので、10 代半ばに経験していて、大学時代は「封印」していた「アナーキー性」、「ヒッピー性」をその後の海外生活で心置きなく実現することが可能になったのだと思われます。)

というわけで、以下には、私の非常に「不毛」な大学生活においてのキーポイント的なイベントだけを記すことにします。

大学入学直後から文学部キャンパスのスロープの下に部室があった「グラネ (フランス語で「落穂拾を拾う」)」という文芸サークルの一員となりましたが、このメンバーは、毎日トランプやマジックに耽る「どうしようもなく」生産性のないように見える学生の集団でした。

このメンバーを通じて、私は「ミオシス」という商業的文芸雑誌の編集メンバーとなりました。2 年次に中野の沼袋のアパートに住み始めましたが、その場所が定期的な編集会議の場所となりました。私は、この雑誌にエッセイや連載小説を投稿しました。

小説のタイトルは『過去への旅路』というもので (ニール ヤングの「Journey through the Past」およびプルーストの『失われた時を求めて』を意識したものでした)、テーマは、前年の 1 年次の秋に関係が終わった女性との生活を振り返った、当時流行していたフランスのアラン ロブグリエ風の「ヌーボー ロマン (新小説)」を意識した、過去と現在と未来が入り混じる恋愛小説でした。

私自身、大学入学当時、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』等に触発されたこともあり、大江健三郎を目指して、小説家になろうとしていましたが、かなりおもしろいという自信のあった私の小説に対するまわりの反応にかなり失望して、いつしか「筆を折ろう」と決意しました。

前年の 1 年次の秋に女性との関係が終わった、と上に書きましたが、これは、付き合い始めて 1 年半くらい経ったある日、彼女が突然、「(ある大手) 出版社で編集のバイトをしていいですか」と聞いてきたので「OK」と言ったのですが、その後しばらくして、この出版社の妻子ある編集者と「できて」しまったことによるものでした。彼女のマンションに行くと、この編集者がいる、といった「修羅場」の後、この女性とは別れざるをえなくなりました。

彼女との関係がおかしくなりかけて、最後に彼女のマンションに泊まった朝 (1976 年 9 月 9 日でした)、それまでにどこでも見たことのないような空全体に広がる真っ赤な「朝焼け」を窓の外に見て、びっくりしました。その日の午後、ラジオで「毛沢東死去」のニュースが流れ、やはり、あれは「中国の赤い星が落ちた」印だったのか、と妙に納得しました。このことは私の『過去への旅路』の小説に書きました。

別れた後、しばらくして、その出版社が出していた有名な男性雑誌の「スキーの滑り方」特集のモデルとして、その女性が採用されていました。

(数年前、この女性と別れて 25 年後に、田辺の高校の同窓会に出席したとき、この女性もいたので、挨拶してみましたが、当初「あなたは誰ですか?」と言われました。この女性と別れた後、私は、精神的にも (最も大きな転機は、1983 年のアメリカ オレゴン州のコミューンでのインド人導師への弟子入りでした)、肉体的にも (予備校時代のあまりの勉強のしすぎで、私は大学時代 (精神病と神経症の間の)「境界線症 (ボーダーライン)」的な症状を患っていました。これが、女性との関係が終わった原因の一つだった思われます。当時体重も四十数キロしかありませんでしたが、同窓会でこの女性と再会したときは 60 キロありました) 大改造しましたが、あれだけ親しかった人でさえ、認識できないほど自分が変わっていることを改めて再認識した次第でした。)

大学 3 年次に専攻課程に分かれましたが、当時、仏文科に進もうか心理学科に進もうか、かなり悩みましたが、早大の心理学科は (いわば、鼠を対象としたような) 統計学を重んじた心理学科だということだったので、初心貫徹で、仏文科に進みました。

1 年次にフランス語の教授が講義中に「もし君たちがフランス語を話したいと思うのであれば、ラボ機器が整備されている他の特定の大学と違って、この大学ではいっさいしゃべれないままで終わるので、日仏学院かアテネ フランセに通うように」とアドバイスするのを聞いて驚愕しました。確かに、早大仏文科では、「卒論対象の文学者の原文をいっさい読まずに、批評書もすべて日本語訳で読む」のが一番かっこいいと思われていたようです (最もかっこいいのは同学科中退なのでしょうが、私は、以下に述べるように、中退しそこねました)。

ということなので、私は、2 年次から飯田橋の日仏学院にも足繁く通っていました。当時、大学の同級生には、私と同じようにフランス語を一所懸命学んでいた仲間が二人いました。彼らとは、この人がフランス語専門学校に週 10 時間通うのであれば、私は 15 時間通うといった競争をしていました。

この二人の同級生は、その後大学院に進みましたが、さすがの私でも、もしこれ以上、「左脳志向の研究」を続けたら頭と体がぼろぼろになるだろうと実感し、「象牙の塔」に入ることを止め、「野に下る」決定を下しました。(現在、この同級生の一人は、佐賀大学で、もう一人は早稲田大学の教育学部で、フランス語の教授をしているとのことです。)

「野に下る」決定をさせた原因の一つに、3 年次の夏に参加したパリでの「仏語研修」がありました。これは、大学の夏季休暇を利用して、パリの仏語学校に 1 ヶ月間通うパッケージ ツアーに参加するというものでしたが (当時は、フランスまで東南アジア、中近東、スカンジナビアを経由する南回り路線で、日本から 36 時間程度かかりました!)、一度 (私がトラウマだらけだと自己認識していた) 日本の文化という「ボックス」から外に出て、(習慣的なアンカーリングのプロセスがほぼまったく起動しないような) まったく異なる西洋文化に触れて、私は、文字通り「水を得た魚」のようになり、生まれて以来味わったことのないような解放感を感じ、「今後、私の生きる場所は日本国外だ」という思いを確信した次第でした。

この 1 ヶ月のフランス滞在の後、帰国したのですが、どうしても日本の住みづらさには耐えきれず、大学の 4 年次に、当時、日仏学院等で交流があった慶応の女子大生二人が (フランス国と国内大手新聞社が後援する) 給費留学生として渡仏することにもなったので、(その後を追って、と言うと語弊がありますが) 私も、半年休学して再度フランスに「自費留学」しました。

半年の休学予定でしたが、パリ生活の中で、自分の中に「放浪」の欲求が芽生え、当時、パリで、アルジェリアのサハラ砂漠でのフランス語通訳の募集がたくさんあったので、そのまま大学を中退して、直接サハラに行くことを真剣に考えました。この考えを押し止めてくれたのは、日本で知り合い、一時私の中野のアパートに居候もしていた合気道実践家のフランス人の若者が結婚した日本女性でした (この夫婦とは今も親交があります)。彼女は私に、「あなたは、自分のいやなことから逃げることばかり考えているが、今、一度でもいいから、一番住みづらいところに行って、そこで我慢することを学ぶ必要がありますよ」と進言し、私は、これを受け入れて、まず後一年間の大学生活を終えた後サハラ砂漠に行くために、しぶしぶ帰国しました (当時、私が、一番住みづらい場所は、サハラ砂漠ではなく、日本である、と考えたことは非常に興味深いです)。

このようにして、私は、一番住みづらい国である日本に戻ってきて、復学し、残りの一年の学生生活を再開しました。この際、1 年留年となりました。仏文科のクラスの学生には、「この学部を中退しそこねて、あなたは、『ただの人』になってしまったね」と揶揄されもしました。同時に青山にあった仏語通訳派遣会社にも登録し、この会社で開講していた定期的派遣人材用専門仏語講習にも参加して、「虎視眈々」とサハラ砂漠行きを狙っていました。

4 年次の学士論文としては、プルーストを選びました。『失われた時を求めて』はほぼすべて原文で読みました。プルーストの文体は難解で、関係代名詞や関係副詞を使った文が場合によっては 5、6 ページも続く場合がありますが、私は、その長文を完全構文分析することに「至上の喜び」を思えました。私自身の文体は、(すでに指摘したように) 大江健三郎、プルースト、それに特に『アブサロム アブサロム』を愛読した米小説家のウィリアム フォークナー等に影響を受けています。

他にもプルーストの『失われた時を求めて』のベースとなった初期作『ジャン・サントゥイユ』等もフランス語で読み、かつ『「ジャン・サントゥイユ」におけるプルースト的方法の端緒」という学士卒業論文はフランス語で書き上げ、担当教授に提出しました。(この学士論文は、いまだに手元にあります。)

このようにして、精神的には特に特記すべきこともない、非常に「不毛」な大学生活が 1981 年 3 月に終わりました。このとき、実際の卒業を待たずに、私はフランス語通訳として北アフリカ アルジェリアのサハラ砂漠に渡り、その後、20 年近くの私のアフリカと欧米での「放浪」の人生が始まりますが、このことについては、 本メルマガの将来の号で述べたいと思っています。

次号以降では、「精神世界と NLP」、「変性意識状態」、「瞑想」、「催眠」、「カウンターカルチャー」といった本メルマガの「本来の話題」について「認識論的」および「哲学的」考察を加えていきたいと思っています。

(注: 本ページでは、当初マグマグで発信されたオリジナルのメルマガ内容の告知情報部分を割愛しています。)

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