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Creativity Enhancement Ltd.
                          VOL.6 2008.10.28


           『北岡泰典メ−ルマガジン』


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精神世界の求道者・変性意識の学際的研究家・国内NLP第一人者である著者が、
スピリチュアルな世界・カウンターカルチャー等について縦横無尽に語ります。
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『瞑想について』

皆さん、こんにちは。変性意識の学際的研究家・NLP ファシリテータの北岡泰典です。

本メルマガの前号の発行から再度まただいぶ時間が経ってしまいました。お待たせしました。

今号では、瞑想について語ってみます。


* 私と瞑想の出会い

私と瞑想の出会いは、私の師匠のバグワン シュリ ラジニーシ (OSHO) を通じてでした。

バグワンには 1983 年米国オレゴン州のコミューンのラジニーシプーラムで弟子入りしましたが、私は、そのコミューンに 1983 年と 1985 年に計約 1 年間滞在しました。

この間参加した計 8 ヶ月間続いた心理療法コース「デヒプノセラピー (脱催眠療法)」は、プライマル、エンカウンター、リバーシング、その他の当時の最先端西洋心理療法と東洋の瞑想法を統合しようとしたコースでした。もちろん、催眠療法の要素も色濃く取り入れられていました。

「脱催眠療法」の名称の意味は、「人間は、生まれてから、家族、社会によって催眠にかけられて成長する。真の人間性を回復するためには、その催眠状態から覚めなければならない」というものでした。(これは、「人間は、生まれてから、家族、社会によってマインドコントロールされて成長する。真の人間性を回復するためには、そのマインドコントロールを解かねばならない」と言い換えることも可能です。)

その瞑想法には、「ダイナミック瞑想」、「クンダリーニ瞑想」、「ナダブラーマ瞑想」 (これらはバグワン自身が開発した瞑想法です』)、「ヴィパサナ瞑想」、「チャクラ オープニング」、「インテンシブ エンライテンメント」、「丹田を見つめる呼吸瞑想」、「ブラーナヤマ」その他がありました。

これらの瞑想により、私は、自分自身を「内観」し、自分自身の思考の動きを観察することができるようになりました。

その中でも、特に特記すべき私自身の瞑想体験は、1985 年夏に「ラジニーシ マンディア」と呼ばれる、200m x 500m くらいの広さの吹き抜け式の「道場」で、夕方 6 時からクンダリーニ瞑想を行っているときに起こりました。

この瞑想の第 4 ステージのダンシングしていたら、突然、全身が表現不可能な恍惚感に襲われ、まるで宇宙の中で宇宙遊泳をしているような気持ちになりました。

瞑想が終わった後も、この恍惚感はずっと続き、「クンダリーニ エネルギー」が頭頂部の最後のチャクラまで抜けてしまったことに気づきました。

このことが、私の単なる幻想ではなかったことは、瞑想後、道場の脇にある靴置き場で同じコースの参加者だった米人女性 3 人と「ハギング」 (米国なので、ハグは普通にどこでも起こっていました) したのですが、私を含めた 4 人は全員、私のエネルギーに飲み込まれて、ほとんど「昇天」するような体験をもったことからも裏づけられました。

また、翌日「カルマ ヨガ (日常生活のヨガ)」の一環として、山でホウレン草狩りをしていましたが、このときも、ドイツ人の女性が一人、30m 向こうから突然私を見つけて、飛んできて、ハグした私と彼女も、二人とも再度「昇天」する体験をもちました。

この「ナチュラルハイ」的な状態は、約 2 週間程度続きましたが、やがて、その状態は徐々に弱くなっていって、最後には「通常意識」に戻りました。

その後、クンダリーニ瞑想の同じステージで、同じ宇宙遊泳の体験が再び起こらないかと、数年にわたり期待しながらこの瞑想を行い続けましたが、興味深いことに、同じ体験が再現されることはありませんでした (起こってほしいという期待が、まさにその体験の再現を阻害していたのではないかという考え方も成り立つと思います)。


* 瞑想の定義

瞑想の定義としては、バグワンの「Psychology of the Esoteric」(『秘教の心理学』として訳されているようです) にあった次の二つの引用文が、私自身の瞑想定義の源泉になっています (これらの引用は、逐語引用ではありません)。

「家の中から窓の外を見ていて、多くの人々が足早に歩いているとします。このとき、歩く速度が早すぎると、人と人の間のギャップは見えません。しかし、その人たちの歩く速度が遅くなればなるほど、人と人の間のギャップがどんどん見えるようになります。同じように、瞑想で、自分の思考を観察する訓練をすると、始めは思考と思考の間にはギャップは見えませんが、この観察を続ければ続けるほど、思考と思考の間のギャップがどんどん見えるようになります。この『何もない空間』こそが、『真のあなたのアイデンティティ』です。」

「歩いているときに、両足を動かし続けることは、まったく自然で当然なことですが、人間にとって『狂気じみて』いることは、座っている間も両足を動かすことを止められないでいることです。すなわち、他人と会話をもったりしているときには、『マインド』 (『脳機能』と訳せると思われます) を使うのは当然ですが、なぜ、一人でじっと静かにしているときにも、人間はマインドをフル回転で使い続ける必要があるのでしょうか?」

他にも、バグワンは、瞑想は「ネティネティ」であると定義したことがあります。これは、「あれでもない。これでもない」という意味のサンスクリット語で、バグワンによれば、瞑想とは、「この思考でも、あの思考でもない」というふうに、すべての思考との「自己同一化を解除」していくプロセスのことです。

バグワンは、玉葱の皮をどんどん剥いでいったら、芯には何も残らないが、同様に、人間の真の自己アイデンティティは、そのような「空」である、と言っていますが、もちろん、この比喩と上記の窓の外を歩く人と人との間のギャップの比喩とは、同じことを示唆しています。

さらに、このことと、上述した 8 ヶ月間の「脱催眠療法」コースのコース リーダーが参加者に対して言った、「私がここで教えていることは、真の純粋な自分である青空を覆っている不純物である雲を取り除くためのツールであって、私は、あなた方に直接その青空を見せることはできません。すべての雲を自分自分の努力で取り除いた後に、どのような青空を見るかは、まったくあなた方一人一人に任されています」という比喩とも密接に繋がっています。

実は、この「ネティネティ」の意味合いは、非常に深いものです。たとえば、トランスパーソナル心理学者のケン ウィルバーは、『アートマン プロジェクト』で、「肉体」、「気」、「記憶」、「知性」、「至福状態」を指す、インド ベーダンタ哲学の概念である「五つの鞘」に関連して、以下の意味のことを言っています (この引用は、逐語引用ではありません)。

「人間の意識のレベルを意味する『肉体』、『気』、『記憶』、『知性』、『至福状態』の五つの状態の一つ一つはビルディングの各フロアーのようなもので、それを『観察しているもの』はビルディングの外壁のようなもので、常に、各フロアーの基盤として存在しています。そして、この『観察しているもの』が、真我の『アートマン』であり、外側の絶対神の『ブラーマン』でもあります。

また、人間は、通常、生きている間に、瞑想等を通じて『肉体』、『気』、『記憶』、『知性』、『至福状態』の一つ一つに関して、『自分は肉体ではない、気ではない、記憶ではない、知性ではない、至福状態ではない』というふうに自己同一化の解除の訓練をしていないので、肉体が死んだ瞬間、人間は、瞬間的にこれらの鞘すべてが取り外された最高位の意識レベルの『神』の状態になる (= 光明を得る) が、生きている間の自己同一化解除の訓練が足りていないことが原因で、自分に肉体等がないことに大パニックして、一段階降りてきた後、『至福状態』でも同様にパニックを繰り返し、同様に全レベルでパニックを繰り返しながら、徐々に下のレベルに落ちてきて、最後に『肉体』のレベルまで降りてきて、再び他の人生に輪廻するようになります。」

私は、「状況証拠」的に、また精神世界系のバイブルである『チベットの死者の書』にも以上のモデルと矛盾しないことが書かれていることから言っても、(懐疑的に) このモデルを受け入れてきています。

ちなみに、上記の「五つの鞘」モデルは、NLP 共同開発者のロバート ディルツが提唱する、人間の情報処理する 5 つのレベルである「心身論理レベル」 (下から「環境」、「行動」、「能力」、「信念と価値」、「アイ デンティティ」) と、ほぼ完全マッピングされるように思われます。

(2002 年にカリフォルニア州サンタクルーズの NLP ユニバーシティでトレーナーズ トレーニング コースに参加したとき、世界中から来ていた 200 人以上の参加者の前で、私はディルツに「印哲の『五つの鞘』のモデルについて知っていましたか?」と聞いたところ、「知りませんでした」という回答をもらいましたが、ディルツの当時の口述筆記者の女性が、最近亡くなった、超越瞑想の創始者マハリシ・マヘーシュ・ヨギの元の口述筆記者だったことを鑑みると、この回答には疑問符がつくかと思われます。)


* 瞑想と催眠

このトピックに関しては、私は、メルマガ「これが本当のNLPだ!」第 93 号等で、以下のように書きました。

「[ある質問者に対して] 私は、この点に関連して、『私が 1983 年にアメリカで弟子入りしたインド人の師匠は、「瞑想は男性的で、左脳的です。一方、催眠は女性的で、右脳的です。これは、瞑想は (男性的に) ただ一人でその精神状態に入っていける一方で、催眠は、(女性的に) 他の催眠家の支援を借りてその精神状態に入っていくからです。しかし、その行き着く先の瞑想状態と催眠状態は、実は、一つの全体の半球どうしで、一枚のコインの裏表のようなもので、同一の状態です」と述べていましたが、私の過去 25 年の体験と実験から言って、(この言質が正しいという結論が出てきていないかわりに) 間違っているという結論もいまだに導き出されていないので、私は、現時点では、おそらく、私の師匠の主張は正しいと考えています』と発言させていただきました。」

ということで、私には、瞑想と催眠の領域は、ほぼ重複するように思えます。

この点について、NLP 共同創始者のリチャードバンドラーは、最新の著書で次のような、実に興味深いことを述べています。

「人々は、『催眠』と『瞑想』の差異について混乱している場合があります。私は、二つともよく似た状態だと思います。ただし、催眠には方向性、始める前に決めた目的がありますが、瞑想はもっと『無定形』です。個人的には、変性意識に入る場合、私は何かをしたいと思いますし、いつその状態に入っているか、いつ出てきているか知りたいと思いますし、その状態で何をしているか知っていたいと思います。瞑想には充分な方向性がありません。[このため、私は催眠の方を好みます。] しかし、要は、個人的な好みです。」

実際、瞑想会等に参加して、瞑想家が参加者に瞑想誘導しているときに、「この誘導のし方は、催眠誘導そのものである。この瞑想家は、催眠を学べば、さらにその瞑想誘導力を向上させられるのではないか」と思ったことが、過去何回かありました。

いずれにしても、瞑想と催眠とは、実際に完全に同じものなのかどうかという検証は、非常に興味深い課題だと、私には思えます。


* 瞑想と NLP

上記に、「さらに、このことと、上述した 8 ヶ月間の『脱催眠療法』コースのコース リーダーが参加者に対して言った、『私がここで教えていることは、真の純粋な自分である青空を覆っている不純物である雲を取り除くためのツールであって、私は、あなた方に直接その青空を見せることはできません。すべての雲を自分自分の努力で取り除いた後に、どのような青空を見るかは、まったくあなた方一人一人に任されています』という比喩とも密接に繋がっています」と書きましたが、私は、個人的には、この「青空を覆っている白い雲すべてを取り去る」、あくまでも「否定的」な方法論としては NLP 以上のものは、現在、存在していない、と信じています。

すなわち、ある催眠療法家が、「トランスには悪いトランスといいトランスがある」とおっしゃっていましたが、私の理解では、「悪いトランスとは、その中にいても、いっこうに外に出れない非生産的なトランス」で、「いいトランスとは、トランスにいながらも、最終的にトランスから目覚めさせてくれる逆説的で、創造的なトランス」であると考えていますが、この意味では、NLP は、いいトランスの最たるものです。

ディルツは『神経言語プログラミングのルート』の中で「NLP のような認識論的モデルは、私たちの経験についてのモデルであると同時に、このようなモデルについて考えるというまさにその行為を通じて私たちの経験の一部になるという意味において、ユニークなモデルである」と言っていますが、これは、私は、「NLP のような認識論的モデルは、私たちの経験についてのモデルであると同時に、NLP の演習テクニックを行うというまさにその行為を通じて、その演習を行っている主体である私たちの内的世界そのものが変容するという意味において、ユニークなモデルである」と言い換えることがあります。

つまり、NLP のテクニックは、あくまでも否定的なツールであり、軽いレベルの日常的なトランス状態を使うことによって、演習後には結果的には、そのトランスから抜け出すことを可能にする、極めて興味深い逆説的な方法論です。

さらに、NLP には「カリブレーション (観察力)」とか「メタポジション (観察者ポジション)」といったテクニックやモデルがありますが、これらは、まさに、瞑想で言う「肉体」、「気」、「記憶」、「知性」、「至福状態」の一つ一つとの自己同一化を解除して、「純粋観照者」になる過程と完全同一視してもいいメカニズムです。

(「純粋観照者」については、あるヴェーダンタの書は、冒頭の文節で「諸形態をもつマインドが知覚される一方で、観照者 (Witness) こそが真に知覚する者である。だが、観照者それ自体は誰によっても知覚されなることはない」と主張して、観照者が人間意識の最高レベルであることを示唆しています。)

NLP によって、歴史上初めて、純粋観照者になる技能を獲得するプロセスそのものが一連の手順として明示化されたことは、驚き以外の何ものでもありません。

さらに、私は、メルマガ「これが本当のNLPだ!」第 93 号で、以下のように書きました。

「先週の土曜日、私は、ある一日瞑想会に参加してきました。

この瞑想会は、最初のダンシング瞑想 (「クリンダリーニ瞑想」) 以外は、一日中座ったまま行う瞑想でしたが、長年ヨーロッパにいた私には、足を組んだままいることがほぼ不可能でした。(後で、主催者から、日本にいるのだから慣れるようにとは言われましたが、個人的には慣れるつもりはあまりないですね (笑)。)

私自身、これまでありとあらゆる種類の瞑想を体験してきたつもりでいましたが、一日中座ったままの瞑想を行ったのは、今回が初めてでした。

瞑想会が終わった後に獲得した精神状態は、『ドラッグフリー』の『ナチュラルハイ』といったものでした。

終わった後の感想としては、以下のものでした。

1) 瞑想会の主催者は、通常は外に向かっている意識を、瞑想中は中に向けるように、という指示を何度も出していたが、このことと、NLP でいう (外の世界の) 4Te のカリブレーション (観察) とは、一見矛盾するように見えても、実は矛盾していない。

すなわち、上の『通常は外に向かっている意識』とは、外的刺激のアンカーリングの犠牲となって、目的なしに、散漫にさまよっている注意のことを言っているのであって、たとえば、規律ある形で自己観察して、自分の内的世界をただ単に起こっていることを見るように、外的世界で起こっていることを観察することで、結果的には、アンカーリングの現象もコントロールできるようになる。

2) 瞑想会の主催者は、『思考を単に見つめること』を力説していたが、このことは NLP の外的世界のカリブレーション能力を内的世界に適用すること、と定義できる。

3) 昼休みの間、食事する際に課せられた課題は、たとえば、食事を食べる間その味そのものになる、というものだったが、これは、NLP 的には、自分の内的世界の体験を五感の知覚ベースの言葉で表出することとほぼ等しい (前者は言語化せず、後者は言語化する、という違いはあるにしろ)。

4) 一日中の瞑想の後に得られる『深い変性意識状態』は、もしかしたら、単に軽い瞑想状態をアンカーリングする場合の NLP テクニックでは再生できないかもしれないが、長時間瞑想した後得た精神状態を NLP でアンカーリングすることは可能のように思われる。

5) 上の 4) のように、OLD コード NLP では、 アンカーリングでは長時間瞑想した後得た精神状態を (新たに) 『生成』することは不可能のように思われるが、一方で、長時間瞑想した後得た精神状態と NEW コード NLP で (ほぼ瞬時に) 得られる『ノウナッシングステート』は、『極めて』類似した精神状態のように思われる。

以上が、私の一日瞑想会の感想でした。」


* ヴィパサナ瞑想および瞑想の危険性について

NLP は、「観照者になる能力を高める」という観点から言えば、非常に強力なヴィパサナ瞑想 (主に、内観を重視する瞑想法) のツールになりうると私は確信していますが、これについては、メルマガ「これが本当のNLPだ!」第 93 号で、以下のように書いています。

「複数の参加者が私に『瞑想と 4T の関連性について教えてください』という質問をプライベートでされたので、私は、講義中に以下のように説明しました。(4T という基本的 NLP モデルと 4Te と 4Ti の違いの説明についても、現在 Web 上で公開されている旧バー ジョン「これが本物のNLPだ!」 (全 17 号) を参照してください。)

『瞑想が必ずしも 4Te であるとは思いません。ただし、4Te だけに注目するヴィパサナ瞑想という方法論が存在します。実は、真の瞑想とは 4Te と 4Ti を超えた「観照者」と同一化するプロセスであると言えます。』 (中略)

さらに、私は、私は、本メルマガの第 90 号で以下のように書きました。

『NLP に関しても、西洋では、精神分析以降 60 年間? の心理療法の伝統の中で、多くの人々が療法セッションの間に『内省』または『内観』を行う習慣がすでについていますが、日本人はそれをやってきていないので、なかなか NLP が理解できないという状況があることが判明しています。

たとえば、NLP 演習を行って、自分を自己観察するとき、自分が実際に体験していることが自分自身の内側で起こっているのか外側で起こっているのか判断できない方々に何度か出会ったことがあります。この状況は、西洋では、考えられないことです。

私は、「禅瞑想の国」であるべき日本の若者が自分を見つめることができていないからこそ、このようなニートの問題も起こっている、という結論をもちつつありました。

なお、[知り合いの] 瞑想家に、以上のことを伝えたら、「20代のとき、瞑想により不可思議なエネルギー体験(クンダリーニの上昇等)があり、マインドの用意がなく狂気に陥ったことがあるので、瞑想の危険性はよく分かります」という意見をいただいたので、私は以下のように答えておきました。

「私は、『瞑想』という用語で、主に『ヴィパサナ瞑想的な自分自身の思考と行動の自己観察』を意味しています。つまり、プラーナヤマ瞑想や最近話題を呼んでいるようであるマカバ瞑想のような、呼吸法その他を伴った『特殊瞑想』の場合は、ちゃんとした指導者のもとで行わないと危険である可能性がある一方で、『単なる自己観察的な瞑想』には危険性はありえない、という立場です。」

ということで、単なる自己観察 (ヴィパサナと呼んでいいと思いますが) としての瞑想は、万人がすべきことである、この瞑想が足りないことが今の日本のニートの問題を生み出している最大の原因である、という私の意見が、今後日本で常識化していくことを心から願っています。』

ということで、今後の私のワークとしては、瞑想と NLP (= 催眠) を組み合わせたワークを中心に行っていきたいと思っています。

そうすることで、内観、内省法を失った現代日本人がもう一度『禅の国』を蘇らせることができると確信しています。」

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